自分のキャリアを振り返ってみる ①

・・・が、何も書けることはなさそう。

 

最近、色々なアカデミアのキャリアに関する記事を見るのですが、さて、私はどうだったかなと思って筆を取りましたが、書くこと何もないですね。まず、めぼしい業績が(ry

 

1. 幼少期(小学校~中学校)

別のところ(下記参照)で触れているのであまり詳しくは書きませんが、親が失踪してしまったり、その後も施設や親戚の家をたらいまわしになったりと、貧困のまま不登校になり、さんざんな幼少期でした。なので、『故郷』と呼べる地域はありません。滞在期間の長さでいうと、故郷=熊本市になるかなとは思ってます。

 

学校の成績も良くなかったので、そのまま地元で中卒で働くんだろうなとぼんやり思ってましたが、技術の先生の熱心な薦めで高専を一校だけ受験して(受験費用も出してもらって)、合格したので「まぁタダ(授業料免除)なら行くか」というゆるいノリで進学。

 

2. 高専時代

これまでの人生で最も過酷だった時期の一つ。

 

(今は違うみたいですが)全寮制の高専に入学して、食・住は困らなくなったものの、上級生からの体罰と伴ったしごきが酷く、実際、同期も何人かそれで退学していたり・・・

 

ただ、教育面はしっかりしていて、この後で編入学することになる国立大学の同年代の学生たちよりもはるかに専門的なこと、数学、工学的な知識は学べて、高専で取得していた選択科目の単位が膨大だったため、単位の振替で大学編入学後はほぼ講義受けなくても卒業が確定していました。実習+数単位のみ、みたいな状況(他の高専から来た同じ学科に来た学生は、振替できる科目がなく、毎日必修+教養を受けていたので、大変そうでしたが)。この点では、高専には恩があるともいえなくもないとは思ってます。

 

3. 国立大学理学部~大学院

高専のところでもふれたように、実習以外はほとんど単位とらなくてよかったので(その代わり教員免許に必須な科目受講の道も当時の編入学者には与えられていなかったですが)、そのまま難なく研究室配属になるんですが、ここで最初の"しくじり"が起こります。

 

入った研究室にいたオーバードクター(年限過ぎても博士課程に残る学生)との折り合いが悪く、こちらの実験に必要な酵素やサンプルを勝手に使われたり、隠されたりする始末・・・これに抗議に行ったところ向こうから殴りかかってきたので、しかたなく応戦すると、それを理由に教授から「ラボを出て行ってくれ」と言われます。

いや、なんで俺だけだよ。

と、思っていたら、学科の教授会でも大問題になり、私の引き受け先がすぐに見つかったので、そのラボに籍を置きつつ、オムニバス講義で神経発生の講義をしていた医学部の先生のラボへ。この理学部で受け入れてくれた教授、医学部で実験させてくれた二人の教授がいなかったら、今の自分はまずないと思ってます。どちらもすでに故人ですが、どちらも学内の風当たりなんか気にせず、学生のことを第一に考える真の教育者だったと思います。

 

移った医学部のラボで1年くらい実験をしていると次の問題が発生します。突如、授業料免除の全額免除が切れるのです。理由?知らん。

現代の学生・院生さんたちにはあまり想像できないかもしれないんですけど、当時は奨学金の全額免除・半額免除などの制度もなく、また免除職一定期間働けば免除になる制度も廃止され、また現在のように授業料免除が特措で拡大されていない時代です。COE制度もわれわれのすぐ下の世代から始まります。よく"はざまの世代"と言われますが、ピンポイントで何もなかった世代ってのはあるのかもしれません。加えて、生物系は就職難の時代。大学院を辞めても職がない。詰んだ、と思ってました。

 

そこにも『捨てる神あれば、拾う神あり』。理学部で籍を置かせてくれた教授とは別の教室の准教授が地域で商売をしている理化学機器の代理店に話をしてくれて、そこで雇われることに。今でも覚えてますが、大学のすぐそばにある古いホテルの一階のまずい和食屋で昼飯を食いながらの面接でした。そこで、私は一つ、博打を打ちます。

 

「現在、修士の一年なので、社員になる代わりに学費と下宿代を払ってもらって、アルバイトにみたいな立場で修士が終わるまで大学院を続けさせてはもらえないだろうか」

 

今から考えると、こんな突拍子もない提案を初対面の貧乏くさいよれよれのシャツきた院生にされた方はびっくりを通りこして、怒りを覚えたとは思うのですが、製薬企業で海外支社の社長までつとめた経験を持つその会社の社長はにやりと笑い、「一つだけ条件がある」と言い出しました。

 

「現在、君がやっている神経科学の研究は当社にはほとんど関係がない。なので、より当社の営業分野と近い領域の研究室に移るなら、この話乗ってもいい」

 

というわけで、この言葉を受けてそこから(修士の一年終わる時期に)ラボを変えるというまた別の苦難が始まるのですが、それは「まて、次回」

 

 

別のところ:

就職氷河期にやっと得た職を失い……私がホームレスを抜け出した意外な方法 | 文春オンライン