映画『関ケ原』みてきました
映画『関ケ原』を観に行ってきました。
動機としては、①歴史好き、②時間が少し空いた、と積極的なものではなかったので、それを前提に以下の文章を読んでいただけると助かります。
Summary: 島左近と小早川秀秋がとても良かった
映画『関ヶ原』がとても、とても良かった。石田三成がちゃんと嫌われ者として描かれていて、(初芽との淡い恋のようなものはあるものの)岡田君をジャニーズとして扱っていないのが良い。しかし、何と言ってもこの映画は島左近と小早川秀秋の話なんだと思えるほど、二人が良かった #関ヶ原
— トクロンティヌス (@jyouhou_syusyu) 2017年8月31日
細かいところを上げるなら、初芽については色々注文もあるが、薩摩勢に関しては、行動、鹿児島弁も完璧であっただけに、このスタッフで島津義弘の話が見たいと思った。しかしながら、やはり石田三成、島左近、小早川秀秋、徳川家康、そして前半しか出てこない豊臣秀吉が凄く良かった #関ヶ原
— トクロンティヌス (@jyouhou_syusyu) 2017年8月31日
主役である石田三成(岡田准一)は勿論のこと、島左近(平岳大)の存在感が非常によかったです。石田三成が、他の大名からちゃんと疎まれている描写もあって、単なる英雄劇になってないところもいい。
そして何よりも、小早川秀秋(東出昌大)の中盤から終盤の演技がとても良かった! 一般的な話では裏切り者としてしか語られていない小早川秀秋が、こんなにも人間として描かれている物語はちょっと記憶にないです。とても、とても良い。
逆に、一般的に人気のある島津義弘や直江兼続が端役として、特に目立った印象もなく書かれている物語も、この映画だけのような気もします。そして、直江兼続の立ち振る舞いは、うーんと思うところありました。
なので、この話は島左近と小早川秀秋からの視点だったんじゃないかと思うくらいに二人の存在感は面白く見れました。
① 石田三成の話だったのか?
石田三成が、冒頭の秀吉との出会いのシーンから、最後は六条河原のシーンまでの間、ずっと出続けているので、『主人公としての石田三成』は疑いようがないんですけど、じゃぁあくまで一個人としての僕が、「この映画を石田三成のヒーローズジャーニーとして見れたかどうか」で言うと、答えは「No」です。
C.ボグラーとD.マッケナが著書(※)で言っているように、物語の登場人物には『求めるもの』があって、その求めるものを手に入れようとして、あるいはその求めるものそのものによって、行動が左右されていく・・・・・・という考え方が、僕は好きです。
例えば、広い場所では天敵の鷹や猛禽類が襲ってくるかもしれないという不安から(この場合の求めるものは、身の安全)、マウスが四角い箱の隅っこに常にいるように。
しかし、この映画の石田三成に最後のシーンでああなってしまうほどの、強く『求めるもの』はあったでしょうか?
中盤から出てくる「大一大万大吉」や「正義」がそれなんでしょうけど、三成がそれについて、自身の行動規範となるまでの、条件付けされるほどの強い体験が語られていないため(あるいは希薄なため)、逆に前半で三成との会話のなかで『新しい世界』の可能性を見出して、変化していく島左近や小早川秀秋の方がヒーローとして成立しているように感じます。
監督は、たぶん島左近か小早川秀秋の話として書いていたんだよな。きっと(それっぽいことは公式サイトでもちらっと書いているけど)。
※
② 二軸の対立として成立していたか?
徳川家康と石田三成の、「野望」と「正義」の二軸の対立として成立していたかというと、上記のように三成側の動機付けが弱いので、そこまでははっきりと対立しているように見えない。
それでも僕のような歴史好きは、予備知識として「石田三成」や「徳川家康」、それに「関ヶ原の合戦」を知っているので、対立しているように見えなくもなかったのだけど、これが予備知識ゼロの外国籍の人だったらどうなんだろうか?
サムライが派手に切り合いをしたり、ニンジャまで出てくるのだから、見目はとても日本らしいアクション映画に見れるかもしれない。
しかし、映画を見終わった後で、『じゃぁ、何で家康と三成は戦いを起こしたんだい?』と尋ねても、答えはなかなか返ってこないような気もする。
僕が紀元前480年のスパルタ王レオニダスやテルモピュライの戦いを、予備知識としてまったく知らなくても『300』を映画として楽しめたのと比べると、その差ははっきりとしていて、やはりアクション映画であっても、登場人物の「求めるもの」を丁寧に語る必要があるんじゃないかと思う。
③ それでも良い映画だと思える理由
原作者が小説を書くための話をナレーションしているところは省いても良かったのでは・・・と途中まで思っていたが、あのナレーションがないとオープニングの秀吉との出会いのシーンで開けた世界が、最後の六条河原で閉じることが出来ないのではないかと後で考察できる。計算された映画だった #関ヶ原
— トクロンティヌス (@jyouhou_syusyu) 2017年8月31日
六条河原で石田三成の柿の逸話をあえて省いていたのが、その最たるもので、省いていて良かった。柿のエピソードはこの映画には蛇足にしかならないと思う。終わり方もとても良かった。唯一、残念だったのは、映画館の中がガラガラだったことくらいだ。 #関ヶ原
— トクロンティヌス (@jyouhou_syusyu) 2017年8月31日
このtweetがすべてで、登場人物たちの動機付けなどはうーんと唸るところもあったのだけど、冒頭の秀吉の鷹狩の休憩で開けた世界と、最後の六条河原のシーンの対比が『関ケ原』という物語を通して変化したものとして見せることが計算されていて、物語としての完成度は非常に高いと思っている。
僕のような三流物書きであれば、石田三成の逸話として有名な『柿』の話を引き合いに出して、石田三成が最後まで信念を突き通したという結末を見せたかもしれない。
でも、寺の一小僧だった三成が、こまっしゃくれた手を使い、そこで権力者である豊臣秀吉の目にかかり、暴君・秀吉とともに歩んだことで作られた石田三成の世界が、最後に六条河原で閉じるシーンは、確かにあのシーンで良かった――というより、あの終わり方が最適解なのだと思った(※2)。
一度語り始めた一つの世界を、きちんとした形で二時間半で終わらせる、とてもいい映画だったと思います。
・・・・・・ところで、エヴァンゲリオンのラストシーンはまだですかね? 特論でした。
小説を書いています。よろしければ
おまけ: この映画で最も成功したのは、やはりまたひらパーだった
※2 そして、初芽に関しては映画会社がよくぞぐっと耐えてくれたラストシーンとして、シンゴジラ以来のものなのではないか